第1章 自閉症スペクトラムとは

視覚優位と聴覚優位

第一章の最後に発達障害者と共に仕事をする可能性のある皆様へ向けて、知っていて欲しい神経特性をご説明させていただきたいと思います。
私自身、この言葉は病院のリハビリセンターで初めて聞きました。その当時は何のことかよく分からなかったため、とりあえず知ったかぶりで「聴覚優位です。」と答えてしまいました。 しかし、いまでは私は典型的な「視覚映像優位型」であると思っています。
あまり知られていない特性ですが、発達障害者と共に仕事をすることのある人には、ぜひともこれらの特性を知っていて欲しいと思います。

そもそも人間は、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚という五感を持っており、それらを駆使することで外界からのありとあらゆる情報を入手しています。 しかしながら、アスペルガー症候群をはじめとする自閉症スペクトラムの人々では、それらの感覚が極端に偏りがちで、過敏性もしくは鈍麻が見られます。 例えば、視覚に過敏性を持っていると、適度な明るさとされている蛍光灯のライトでもまぶしく感じ、その場にいることにすら強いストレスを感じていたり、 また聴覚が過敏であると、空調やサーバなどの機械音に耐えられずに長時間その場所にいることができない等、他の人とは違う感覚を持っているがために、 それが日常生活においても大きな障害となるのです。
それ故に、たとえ同じ診断名であっても、「視覚的な感覚を中心に認知しているか」「聴覚的な感覚を中心にして認知しているか」では、見る、聞く、認知する、 その他の感覚ほとんどすべてに置いて、全く違う世界を感じています。

≪視覚優位≫(視覚映像優位型)
言葉を覚える以前に、視覚で直接ものを見て考え、理解し、知識として積み重ね、思考していると考えられています。
その中でも特に、奥行き感のある三次元に、人の動や太陽の動き(影)などといった「動き」を意識できる場合には、時間軸が加わることになり、 つまりは四次元のといった動く映像で思考ができると考えられます。そのような思考を持つ人たちを、特に「映像思考」と呼んでいます。
視覚優位の人は、一般に視覚記憶を活かし、土木・建築・デザイン・服飾・映像・生物学・物理学・パイロット・外科医、そしてスポーツなどの世界に必要なものです。

◆同時処理…視覚的に全体を見渡すようにイメージでき、一度に多くの情報を取り入れ、同時処理をすることを得意とします。
◆全体優位性…細かいことより、大きな全体的なことへの関心を示します。
◆色優位性…線より色彩の感度がよいとされます。色優位性の能力は、空間を奥行き感のある三次元的なものとしてとらえていると考えられます。
◆ディスレクシア…特に映像思考が強く、色優位性を持つ人、あるいは三次元に強い人は、認知の偏りが強く、ディスレクシア(読み書き障害)である可能性を多く秘めています。 主な症状は「音の聞き取り」や「音の記憶」に困難が生じたり、「背景から特定のものを抽出できない」「音と文字の結びつきが弱い」 「動きや奥行きが分からない」という症状で、これらは遺伝的な要因が関係していると言われています。

≪聴覚優位≫(聴覚言語優位型)
言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、知識として積み重ね思考していると考えられています。
視覚優位とは反対に、聴覚優位の人は空間認知が苦手ですが、踏襲性を必要とする学習や語学などは、聴覚からの記憶の良さかが手伝い大変優れています。 一般的に聴覚優位な能力は、語学関係・音楽関係・俳優・小説家などの世界に必要なものです。また、医学の世界も患者の言葉を拝聴するという言い方もありますから聴き取る能力を 必要とします。

◆継次処理…聴覚や言語からの情報をもとに、いっぺんにではなく時間を追い、順番に段階を追って理解することが得意で、言語的な手がかりを用います。 部分から全体に理解を進める処理を得意とします。同時処理と比べ時間はかかりますが、きわめて論理的と言えるでしょう。
◆局所優位性…全体的なことよりも、細かいことや局所にのみ関心を示します。
◆線優位性…色彩よりも、文字を含む線に感度が高いとされます。空間をどちらかというと奥行き感のない、二次元的なものとしてとらえていると考えられます。
◆相貌失認…人の顔や表情を認知できないこと。人の顔は、視覚的に個人を特定する重要なよりどころです。自分と他の人の気持ちが違うという前提をつくることができず、 常に自分と他の人とは同じ気持ちであるという思いのまま、一方的な思い込みや振る舞いとなってしまいがちです。つまり、他の人の本音の部分が理解できないのです。

先に私が「視覚映像優位型」であると記述しましたが、私の持つエピソードを交えて、視覚優位の特徴についてお話したいと思います。
私には子供の頃から、自分の空間認知能力が人より優れているという認識がありました。父は建築大工で、子供の頃には部屋によく家の図面が広げられていたのを覚えています。 私が物心つく頃には、そこに書いてあった図面から、出来上がった家を想像しては遊んでいました。窓は1回のリビングとキッチンのここにあって、戸は内側こう開く、下駄箱は玄関のここにあって、 外の景色はこんな感じだろう、などなど想像遊びは私の得意とするところでした。
そして、小学校の頃に土足禁止のポスターを描いたのですが、そのポスターを見た両親が不思議そうに見ているという記憶があります。 その当時は意味が分かりませんでしたが、成人してから、やっとその意味を理解しました。そこには、通常『見えているはずのない』下駄箱の真上からの光景が端から端まで描かれていたのですから。 しかも、当時は遠近法で絵を描くことに凝っていたこともあり、下駄箱上部を中心に床までを遠近法で正確に書き、さらに上から蛍光灯を当てた場合の影まで描いていました。 また、床には子供が走った後のように足跡が散りばめられていました。
たしかに、子供がこんなものを描けば、大人はびっくりするでしょう。ただ私は、特に褒めて欲しいわけではなかったので、あまり気にも留めずに階段の踊り場に張り出されているポスターを見て、 ひとり満足していました。

ちなみに、当時私が凝っていたものには、宇宙や星の生まれた頃までを遡って想像してみたり(宇宙の果てには何がある?という問題にぶつかり眠れなかったこともあります)、 天文学の本や古代史を読み漁る、という昔から変わった子供であったと思います。しかし、その割には読むスピードは極端に遅く、図書の貸出しの延長は当たり前のようにしていましたし、 また字数の少ない漫画版や絵本のようなものに偏りがちでした。そして、本を読むことは好きだけど、感想文を書くことが大の苦手で、たった2行書いただけで疲れて、ぐったりと横になっていました。
いまから思えば、この当時から私には「ディスレクシア」の傾向があったのかもしれません。パソコンが広く普及した現在であるからこそ、私は字を書かずに頭の中にある映像をブラインドタッチで 直接文章に変換し、文章を作成することが可能となりました。しかし、逆にパソコンがなければ、いまでも私は自己主張ができずに一人想像の世界に閉じこもっていたのかもしれません。
ちょっと大げさかもしれませんが、私のような視覚優位の人間にとっては、いまのIT技術は救いの神と言っても過言ではありません。それほどに、私にとっては読み書きが難しいのです。

ここまで「視覚優位」と「聴覚優位」とそれに付随する特性を記載しましたが、「視覚優位だから、こうに違いない」「聴覚優位だから、こうに違いない」という考えは危険を伴うと考えています。
分類はあくまでも、その人を理解するうえでの指標であり、その人の人間性を確定するものではありません。しかしながら、認知の偏りのある人は、自分とは違う認知の仕方にはとても敏感になります。
「周囲は自分の考え方とは違う」「なぜ、そのように思うのだろうか?」
「なぜ、そんなことが分からないのか?」などという考えに囚われてしまいがちです。
人は感じ方が同じ場合には自然な形で表現をしますが、感じ方が違う場合には積極的な表現を避けてしまいます。それぞれに合った職種、それぞれに合った学習方法、それぞれにあった人間関係を探し、 フォローしていくことが重要なのだと思います。

東日本大震災後に流れたCMで、人々の心に深く響いた言葉『こだまでしょうか、いいえだれでも』を読んだ童謡詩人 金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」に『みんなちがって、みんないい』という言葉があります。
みんな違って、みんな良い、そんな当たり前のありふれた環境が、いまの私たちには必要なのではないでしょうか。
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